SPECIAL
インタビュー
【NEWSPOインタビュー】スラックライン 早坂航太さん
徐々に日本国内での認知度も高まり、テレビやYouTubeでも取り上げられているスポーツ『スラックライン』
今回はスラックライン教室に参加するとともに、世界を舞台に活躍し続けていた早坂航太さんにお話を伺いました。
日本での競技化に貢献し後輩ライダーたちの活躍の場を作り上げ、今は子供たちの心身の成長を応援している早坂さんの考え方とスラックラインの魅力に迫ります!
スラックライン教室に参加したスタッフの声
・めちゃくちゃおもしろい!みんな集中しすぎて、どんどん口数が少なくなった(笑)
・一本一本でチャレンジすることがある。できるようになると、うれしくてもっとやりたくなる。
・普段意識しない筋肉を使ったことで筋肉痛を感じつつも、姿勢改善や体幹が鍛えられることがわかった。
・一本踏み出すときは勇気がいるが、少しずつ上達していけたのが楽しかった。
・早坂さんの動画がめちゃくちゃ格好いい。
など
早速ですが、早坂さんのご経歴についてお聞かせください
はい。1994年12月31日生まれの25歳です。元々は器械体操をずっとやっていて、18歳の時に高校を卒業するのを機に体操を辞めました。18歳の時に大学のスラックラインサークルに出会いました。プロアスリートとしての契約は24歳までの期間でした。アスリートとしての契約が満了した後、スラックラインの普及活動や子ども向けの教室を開いたり、パフォーマンスをしています。
元々は器械体操をされてたんですね
そうなんです。ただ、小中学生時の器械体操では実績を残せていませんでした。毎日筋トレと食事に気をくばった生活を続けていたら高校生になって筋肉もついてきたこともあり、高校生では全国選抜で8位になったり、種目別の床で2位、あん馬で優勝して日本一となったこともあります。しかし、中学生の時に体操では食べていけないなと考え、高校3年間で体操を辞めるとことを決意していました。
高校卒業後は理学療法士の資格を取れる大学に進学し、そこで勉強すると思っていたのですが、スラックラインに出会い、のめり込んでいきました。
大学からだったのですね!
はい。スラックラインをはじめて半年で全国大会の予選を突破し、ベスト16という成績を残すことができました。器械体操で鍛えた体幹や基礎となる動きができたことはプラスになりました。
ええ!すごい…!
実は、人より不器用だったこともあり、幅5㎝というスラックラインの上で5m以上歩けるようになるまで2週間かかりました。歩くことに苦労しましたが、体操経験のおかげで宙返りには恐怖心はなかったので立って歩けるようになったら、スラックラインでも宙返りができるようになりましたね。
宙返りに恐怖心がないというのがさすがと言いますか…
そこからどうやってプロになったのですか?
プロにスカウトされたのは初めての大会に出場する前でした。というのも、大会出場の前から投稿していたYouTubeの動画がきっかけです。大会出場後に正式にプロとしての契約を結び大学の4年間所属していました。
2年目の時にはじめて世界大会に出場しましたが、その時は初戦敗退という結果でした。その後は1カ月くらいの間アメリカに滞在してローカル大会に出場していました。その間は大会出場して賞金稼ぎをしながら各地を転々としていました。ただ、スポーツ一筋だったので英語はしゃべることはできませんでしたけどね(笑)フィーリングで意思疎通を図っていましそた。
アメリカではローカル大会などが盛んに行われていたのですが、3年目の時にアメリカで開催された世界大会に2回出場し、両方とも3位という結果でした。その後、レッドブル主催のレッドブルエアラインズというクレイジーな大会にも参加しました。
ク、クレイジーとは…?
はい、なにがクレイジーかというと、地上12mという高さでスラックラインの演技を行っていました。この大会では4位でした。
(一同、早坂さんの動画を観ながら唖然)
様々なフィールドで行うことができるスラックラインですが、地上12mという高所で行う大会はレッドブルだけです。もちろん、その高さでの競技なので落ちればOUTですが、出場するのは”絶対に落ちない”というプロの選手だけが呼ばれています。
4年目の時は理学療法士の資格試験の関係で大会に出場することはほとんどありませんでした。会社に就職した後は会社勤めの傍らで練習し、辞める間際にフランスの大規模フェスに出場しました。
(イベント決勝の舞台で約6~7万人もの観衆が見守る中での動画を観る)
このイベントで自分にしかできないオリジナル技を織り交ぜ、総合2位、部門別で優勝して世界チャンピオンになりました。
そのオリジナル技とは?
前方1回宙返り2回ひねりを行う「MAD(マッド)フリップ」という技です。名前をつけたのも僕自身であり、幼稚園の頃から抱いていた『自分で技を創る』という夢が叶ったときでした。
幼稚園児が『自分で技を創る』という夢を抱くのはなかなかないように思うのですが…
器械体操を2歳の頃から習い始めていたこともあり、「オリンピックに出場して金メダルを獲得する」ではなく、「オリンピックに出場して自分のオリジナル技を披露する」という夢を持っていました。
なので、器械体操ではなかったですが夢を叶えた瞬間でもありましたね。
その後は大きな大会には出場せず、フリーに転職してスラックラインを教えたり、子供たちに運動を教えたり、スポーツや健康に関係することを色々とやっています。
高校時代に実績を残した器械体操からスラックラインに転向することに抵抗感はありませんでしたか?
中学3年生のときに決めていたことなので抵抗感はありませんでした。当時は「器械体操では稼げない」という考えがあったので。スラックラインではスポンサー契約を結ばせていただいた分、安定した収入を得ていました。
そうだったんですね!
ちなみに、スラックラインと並行して理学療法士という道を目指すようになっていたのは、スポーツや健康に関わりたいという思いがあったのでしょうか?
そうですね。あとは父親の影響もあったかもしれないです。
父親が理学療法士として働いていた姿がかっこいいという想いはありました。結局は、理学療法士自体にはなりませんでしたが(笑)理学療法士の資格や知識を元に歩き方や姿勢、筋肉についてスラックラインや運動教室にも取り入れて伝えさせていただいています。
スラックラインのどういったところに魅力を感じて、のめり込んでいったのでしょうか?
昔からひとつ決めたらのめり込みやすい性格でした。一番魅力的だったのは「技ができるようになる」という自分の成長がわかりやすかったところです。器械体操をしていたときも試合が好きだったわけではなく練習が好きだったんですよ。勝ち負けよりも「できる技が増えていく」ことが一番楽しかった。それをスラックラインでもやっていたら、のめり込んでいたんですよね。
なるほど!できる技が増えていく…
人生においてそれが無駄であればあるほど好きですね(笑)
日常的になにかを成し遂げることがすごく好きです。
それがスラックラインにはまった理由かもしれません。
当時は1日どのくらいの練習していたのでしょうか?
医療系大学の特徴でもありますが、大学1年生の時が一番時間ありました。学年が上がるごとに専門や実技、実習、受験勉強などで時間がなくなっていきます。大学1年の授業がない時間を活用して、4時間くらいの練習を週4日やっていました。土日は千葉から埼玉にまで片道1時間くらいかけて移動して、6時間ずつくらいほかのコミュニティの場所で練習していました。
スラックラインサークルでは指導者のような存在もあったのでしょうか?
指導者は誰もいませんでした。僕がスラックラインを始めた頃というのが、スラックラインが日本に入ってから4年目という時期だったので指導者もおらず練習方法も決まっていませんでした。
日本のスラックラインの第一人者といわれている我妻吉信さん(通称:Az-can(アズキャン))がたまたま僕の大学に伝えていたのでサークルが誕生していたのです。
指導者がいないなかでどのように練習されていたのでしょうか?
器械体操時代のメソッドを取り入れたり、YouTubeを観て自分なりに試行錯誤を繰り返しながらトレーニングしていました。
スラックラインでさらに上達するためには器械体操にはないリズム感や独創性、しなやかさなども必要だと感じました。しかし、僕はリズム感を持っていなかったので、そこを磨くためにストリートダンス部に入部して練習していたこともあります。
スラックラインの試合ではどのように進行するのでしょうか?
スラックラインの競技では1分半という持ち時間があります。その中で繰り出す技の技術点と芸術点の合計点で競います。技の数は決まっていないので、次々と別の技につなげていける人が有利になります。技を成功させ続けるほど”コンボ”という形で加算されていきます。基本的には演技前にしっかりと技の構成を決めてから臨むのですが、演技中にどんどん違う技を繰り広げていくこともあります。スラックラインの黎明期であったことも構成の考え方などを器械体操で把握していた僕に有利だったかもしれません(笑)
今までで印象に残っている大会はありますか?
スラックラインを始めてから1年半くらいのときに出場した2014年の全日本オープンです。僕が始めたときからずっと憧れていたエストニア人のヤーン・ローズ選手との試合が記憶に残っています。当時のルールでは採点方法が定まっておらず、しっかりと点数が決められていたわけではなく、ヒップホップのダンスバトルのように会場を沸かせたかどうかで勝敗が決められていました。とにかく凄い技を出していくことや会場を盛り上げるパフォーマンス要素も求められていました。その時の試合は本当に好きな試合のひとつでした。
どんな選手が世界では活躍しているのでしょうか?
日本人選手も活躍していますが、競技用の道具というのは3万円程ですべて揃えることができるので、ブラジルやチリなど南米出身の選手も多いです。彼らはなぜか変な体勢で落ちても怪我しにくいのが凄いです。筋肉がしなやかで質が良いので強さと柔軟性を持っているのだと思います。
日本人選手の活躍というのはどうなのでしょうか?
今の日本人選手はかなり強いです。アメリカでパフォーマーとして活動する20歳の子やレッドブルと契約を結んでいる選手も世界を相手に優勝するなど活躍しています。
世界中の選手を含めた最大点数ランキングがあるのですが、現在4位になっているのが日本の13歳の選手だったりします。
日本のスラックラインは現在”第4世代”と個人的に呼んでいる若い選手達が世界で活躍しています。
趣味やレクリエーションとしてはじまった”黎明期”、競技化を促進させ基盤を整えてきた”第2世代”、競技としても成熟している”第3世代”が現在20歳となる選手達、そして生まれたときからスラックラインの基盤が整っていた”第4世代”にあたると考えています。
20歳の選手達も中学生までは別競技をしていた人が多いですが、現在の”第4世代”の選手達は最初からスラックラインに競技として触れています。
世界中の選手とつながっているとのことですが、言語でコミュニケーションすることもありますか?
選手に限らず、スラックラインに関わっている人とは世界中でつながります。海外の選手やライダーさんともテキストベースでなら意思疎通もできます。言葉を話せなくても同じスポーツをしているので、用語や技名だけで意思疎通できます。世界とつながることは難しいとは感じていません。
生涯のスポーツとしてスラックラインを取り組むことを考えているのでしょうか?
生涯のスポーツとしては考えていません。得意なスポーツだったのでたまたま仕事にしているだけですね。体操を続けていたら体操を広めていたかもしれませんし、ドッヂビーをしていたらドッヂビーを広めていたかもしれません(笑)別の競技を今していたらその競技を普及していたかもしれません。
元々は自分に自信がない人間だったので、自信を持てて仕事としてもできたのがたまたまスラックラインだったというだけですね。僕と同じようにスラックラインを通じて自信を持てる人が出てきたら良いと思います。
身体だけでなくいろいろな面で不器用だし、団体競技も苦手。取柄といえるのはスラックラインだけかもしれません。体操しているときの自分は好きでしたが、その体操がなくなったら自分の存在価値を考えることもあるくらい自信のない人間でした。でも、スラックラインに出会ったことで、体操だけでなくスラックラインもできるようになり、「あ、2つできるようになったならなんでもできる」と思えるようになったんですよ。だから、スラックラインを広めているかもしれません。
個人でできる。でも、みんなでもできる。どっちもできるのがスラックラインの魅力です。
究極的に独りぼっちの人でもできるし、ネットでfacebookなどの媒体を使えば世界中のスラックライダー達とつながることもできる。都内を歩いているときに海外から訪れた人から声を掛けられることもあります(笑)
「人との繋がることが疲れる。一人でいるほうが楽」と考えている人も多いと思います。僕自身、ずっと人とのつながりを切って生きていたことで精神的に疲労していたこともありました。そこから変化でいたのはスラックラインがあったからであり、今は人と繋がっていくべきだと考えています。
僕を変化させてくれたものがスラックライン。だから、それを伝えていくのが楽しい。
それで変化させられる人もいるんじゃないかな。
スラックラインに出会うまでは「体操がないと生きていく力がない」と思い込んでいる時期もあり、死ぬのが怖いから生きていた時期もあったかもしれません。
しかし、18歳の時にスラックラインに出会ってからはずっと「今が人生の中で一番おもしろい」と思って生きている。今は子どもたちがスラックラインを通じて技を習得していくのも精神的に成長していく姿も応援していきたいし、教室でもそういったところを子どもたちに伝えています。
内気だった子がスラックライン教室を通じて、楽しそうに成長している姿を見れるのがいいですね。
精神面での成長も応援していくことで、心身ともに健康な人を増やしていきたいと思います。
精神面を応援するときに大事にしていることは?
一人一人の”特性”を捉えていくことですね。性格っていろいろあるし、「脳みその偏り」というのも人それぞれあります。僕自身が中心となって発達障害を持った子供たちに発信する取り組みも始めています。苦労することも多いですが、自分自身もその傾向に苦しんだことや専門家の方からもその傾向があることを告げられたことがあります。ほかの教室の対応とは異なる部分もあるかもしれませんが、子供たちの脳の癖やこだわりを理解していけるように努めており、子供たちの気持ちを受け入れられるようにしている。
それはスラックラインでもいいし、スポーツでもいいし、スポーツ以外のことでもできると思います。僕自身が得意で実績もあったのがたまたまスラックラインだったんですよね。
教室を開くときから発達障害を持つ子供たち向けに取り組むというのが念頭にあったのでしょうか?
開いていく中でですね。最初は「スラックラインを教える仕事をしてみよう」というところから教室をはじめました。最年少は2歳~最年長は94歳の人に運動や健康を教えてきた結果、発達障害を持った子供たちも受け入れるようになりました。どんな子供も無下にすることなく、一人一人の特性を活かすことの価値を教室で伝えていけるように対応するようになりました。
やっていくなかで様々な特性を持つ子供たちと関わり、新しい取り組みへの形も作り上げてきましたし、自分自身も発達障害の傾向があったことにも向き合いました。
僕自身は体操やスラックラインの実績や経験を通じて自信を持てるようになったことや家庭環境なども良かったので困ることは少なかったですが、自分自身の特性を知り、それを最大限活かせたことからこそ今があります。そのことを教室で伝えていけるように試行錯誤するようになりました。
現役のスラックラインの選手だった頃と教えている今とでは変化したこともあるのでしょうか?
今の考え方になったということですね。目の前のことに集中していた選手時代には勝つことと技を増やすことにすべてを捧げていた。指導者的な立場になってから子供たちに自分が変化したきっかけを与えていきたいと思っている。他の選手と競うというよりは、自分自身ができる技や世界最先端の技や珍妙な技を増やしていくことは楽しかったですね。
今はスラックラインもスポーツとしてルールが固まってきており、現役の時には点数での採点方法もなかったのでそれを作ってきた現役の時もおもしろかった。そのことも伝えていきたいです。